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伊達政宗はなぜヨーロッパへ使節を送った?慶長遣欧使節から考える貿易と外交



※本音声は、記事をもとにAIを活用して制作しています。一部、発音やイントネーション、漢字の読み方が不自然または正確でない場合がありますので、あらかじめご了承ください。
伊達政宗が、家臣の支倉常長らをヨーロッパへ派遣した「慶長遣欧使節」。

1613年に日本を出発した一行は、太平洋を横断してメキシコへ渡り、さらに大西洋を越えてスペイン、ローマを目指しました。
その大きな目的の一つが、当時スペイン領だったメキシコとの直接貿易を実現することです。
なぜ仙台藩の大名が、これほど遠くまで使節を送る必要があったのでしょうか。
その理由をたどると、海外との商売は商品を売ったり買ったりするだけでは成立せず、国や地域をまたぐ「外交」「信用」「ルール」が重要であることが見えてきます。
慶長遣欧使節を入口に、貿易の仕組み、そして現代の外国為替とのつながりを考えてみましょう。
1.慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)とは

慶長遣欧使節とは、仙台藩初代藩主・伊達政宗が、家臣の支倉常長(はせくらつねなが)らをスペイン、ローマへ派遣した使節です。
一行が日本を出発したのは1613年(慶長18年)。
仙台領の月浦、現在の宮城県石巻市から、サン・フアン・バウティスタ号と呼ばれる船で太平洋へ乗り出しました。
仙台市博物館によると、船には多くの商人を含む180人あまりが乗っていたとされています。
目的地は、単純に「ヨーロッパ」だったわけではありません。
一行はまず太平洋を横断し、当時スペイン領だった新イスパニヤ、現在のメキシコへ向かいました。その後、支倉常長らはスペインへ渡り、さらにローマを目指します。
慶長遣欧使節には、大きく二つの目的がありました。
- メキシコとの直接貿易についてスペイン国王に働きかけること。
- 仙台領内でのキリスト教布教のため、フランシスコ会修道士の派遣を求めること
つまり慶長遣欧使節は、単なる海外視察ではありません。
貿易と宗教をめぐる交渉を行う、本格的な外交使節だったのです。
政宗はメキシコとの貿易を望んでいた幕府側とも連絡を取り合っており、仙台市博物館は、この使節を幕府も認めた正式な外交使節団と説明しています。

なぜ派遣した?
ここで重要なのが、「なぜ政宗は、わざわざヨーロッパまで人を送ったのか」という点です。
海外との貿易を始めたいのであれば、商人同士で話を進めればよいようにも思えます。
しかし、当時のメキシコはスペインの支配下にありました。
そのため、メキシコとの直接貿易を実現しようとすれば、スペイン側との外交交渉が必要になります。
商品を持って海を渡るだけでは、新しい貿易ルートを自由に作れるわけではなかったのです。
ここに、慶長遣欧使節を「お金」や「経済」の視点から見る面白さがあります。
海外と商売するためには、商売の前に国家や権力者との関係を築かなければならない。
政宗が支倉常長を遠いヨーロッパへ送った背景には、こうした貿易と外交の密接な関係がありました。
2.どのようなルートでヨーロッパへ向かったのか

では、支倉常長たちは実際にどのようなルートを進んだのでしょうか。
大まかな流れを整理すると、次のようになります。
- 月浦(現在の宮城県石巻市)
- 太平洋
- メキシコ・アカプルコ
- メキシコを横断
- 大西洋
- スペイン
- ローマ
1613年10月28日、支倉常長らを乗せたサン・フアン・バウティスタ号は月浦を出航しました。
太平洋を横断し、およそ3か月後にメキシコのアカプルコへ到着します。
その後、常長ら使節団の一部はメキシコを横断。1614年にはスペイン艦隊に乗って大西洋を渡り、スペインへ向かいました。
スペインでは国王フェリペ3世に謁見し、常長自身もキリスト教の洗礼を受けています。
しかし、貿易などをめぐる交渉は思うようには進みませんでした。
そこで一行はローマへ向かいます。
1615年にはローマに入り、常長はローマ教皇パウロ5世に謁見。伊達政宗からの手紙を渡しました。
その手紙には、仙台藩へのフランシスコ会修道士の派遣と、メキシコとの貿易についてスペイン国王への仲介を求める内容が記されていました。
そして長い旅を経て、常長が日本へ帰国したのは1620年。
出発から約7年が経過していました。

目的は達成できた?
結論からいえば、メキシコとの直接貿易や宣教師派遣という当初の目的は実現しませんでした。
その大きな要因の一つが、一行の渡航中に日本国内でキリスト教をめぐる状況が大きく変化したことです。
使節が出発した翌年の1614年には、全国にキリシタン禁令が出されています。
スペイン側にも日本国内の禁教や弾圧に関する情報が伝わり、交渉を進めるうえで大きな障害となりました。
また、スペイン側には使節の正統性や伊達政宗の立場などについて慎重な情報も伝えられており、交渉を取り巻く環境は厳しいものになっていきました。
使節がどれほど努力しても、出発時とは政治・外交を取り巻く環境が変わってしまったのです。

3.なぜメキシコとの直接貿易を目指したのか
慶長遣欧使節を見るとき、「ヨーロッパへ行った」という部分に目が向きがちです。
しかし、経済の視点で特に重要なのは、メキシコとの直接貿易を目指していたことでしょう。
当時のメキシコはスペイン領で、太平洋を隔ててアジアとつながる国際的な交易ネットワークの一角にありました。
政宗がそこに新しい通商関係を築こうとしていたことは、仙台藩が海外との経済的なつながりを模索していたことを示しています。

ただし、海外との貿易は国内の商売とは大きく違います。
たとえば、ある地域の商人が別の地域へ商品を持っていったとしても、
- 誰と取引できるのか
- どの港を利用できるのか
- どのような条件で取引するのか
といった問題があります。
相手の国や地域のルールを無視して、自由に商売できるわけではありません。
だからこそ政宗は、支倉常長に正式な書状を持たせ、スペイン国王やローマ教皇という政治・宗教上の権威と交渉しようとしたわけです。
現代の感覚で考えると、企業同士が海外取引をする前提として、国家間の外交関係や貿易制度、決済の仕組みなどが整備されている状態に近いでしょう。
普段、私たちが輸入品を買うとき、その背後にある仕組みを意識することはほとんどありません。
しかし国境を越えた商売は、企業や商人だけで完結するものではありません。
「誰と、どんな条件で、どのように取引できるのか」という土台があって、初めて貿易が成立します。
慶長遣欧使節は、その土台を作ろうとした外交活動として見ることもできるのです。

4.貿易と外交が切り離せない理由

貿易というと、「日本の商品を海外へ売る」「海外の商品を日本へ買ってくる」という商品の移動をイメージしやすいでしょう。
しかし、実際には商品だけが国境を越えているわけではありません。
契約を結び、代金を決済し、輸送し、それぞれの国や地域の制度に従う必要があります。
さらに、国同士の関係が変化すれば、それまで行われていた取引が難しくなることもあります。
慶長遣欧使節がまさにその例です。
使節が日本を出発したころ、政宗はスペイン側との交渉を通じてメキシコとの通商を実現しようとしていました。
ところが、その後日本国内でキリスト教への規制が強まりました。
スペイン側から見れば、「日本と今後どのような関係を築けるのか」という前提そのものが変わります。
その結果、通商交渉にも影響が及びました。
これは、政治と経済が完全には切り離せないことを示す分かりやすい例でしょう。
もちろん、現代の国際貿易は17世紀とは大きく異なります。
企業が海外企業と直接契約を結び、金融機関を通じて代金を決済する仕組みも発達しています。
それでも、関税、輸出入規制、経済制裁、貿易協定など、国家間のルールは企業活動に大きく関わっています。
海外との商売は、「良い商品を作ればそれだけで成立する」わけではありません。
貿易の背後には、国境を越えて取引するための制度や決済、信用を支える仕組みがあります。
約400年前の慶長遣欧使節からも、その基本構造を見ることができます。

5.現代の輸出入と外国為替

そして現代の国際貿易を支える重要な仕組みの一つが、外国為替です。
日本銀行は外国為替市場について、円やドルなど異なる通貨を交換・売買する場と説明しています。
なぜ貿易と外国為替が深く関係するのでしょうか。
たとえば、日本企業が海外から100万ドル分の商品を輸入し、代金をドルで支払う契約だったとします。
日本企業が円資金を使って支払う場合、そのままではドル建ての代金を支払えません。
そこで、
- 円を売る
- ドルを買う
- ドルで輸入代金を支払う
という通貨交換が必要になります。
反対に、日本企業が海外へ商品を輸出し、代金をドルで受け取ったとします。
そのドルを円に換えて国内で使うのであれば、
- ドルを売る
- 円を買う
という取引が行われます。

つまり、商品が国境を越える「貿易」と異なる通貨を交換する「外国為替」は深くつながっています。
日本銀行も、輸入企業が海外との代金決済のため、円を対価として外貨を調達するケースを、外国為替取引が必要になる代表例として挙げています。
そして円とドルをいくらで交換できるのかを示しているのが為替レートです。
たとえば1ドル=100円なら、100万ドルを用意するために必要な円は単純計算で1億円です。
一方、1ドル=150円なら1億5,000万円が必要になります。
同じ100万ドルの商品でも、為替レートが違えば円で見た支払額は大きく変わります。
だからこそ、為替相場の変動は輸出企業や輸入企業の収益やコストにも影響します。

慶長遣欧使節の時代と現代では、貿易や決済の仕組みは大きく異なります。
それでも、「海外と商売するには、商品を運ぶだけでなく、代金を決済し、異なる制度のもとで取引を成立させる仕組みが必要」という本質には、通じる部分があります。
伊達政宗が支倉常長をヨーロッパへ送り、貿易のために外交交渉を試みた歴史は、現代の国際経済を考える入口にもなるのです。
まとめ|慶長遣欧使節から見える「海外と商売する」ということ
伊達政宗が1613年に派遣した慶長遣欧使節は、支倉常長らがメキシコ、スペイン、ローマへ向かった大規模な外交使節でした。
目的の一つは、スペイン領メキシコとの直接貿易を実現することです。
しかし、使節の派遣後、日本国内でキリスト教を取り巻く政策が大きく変化したことなどから、直接貿易や宣教師派遣という目的は実現しませんでした。
それでも、この歴史から見えてくるものがあります。
海外との商売は、単に商品を船に積んで運べば成立するわけではありません。
取引相手との信用があり、外交関係があり、取引のルールがあり、そして現代では代金をやり取りするための金融・外国為替の仕組みがあります。
貿易とは、商品だけでなく、代金の決済や国境を越えた取引のルールまで含む経済活動です。
慶長遣欧使節をこうした視点から見ると、400年以上前の歴史と、現代の輸出入や外国為替が意外なところでつながっていることが分かります。

慶長遣欧使節に関するQ&A
Q1. 伊達政宗はなぜ慶長遣欧使節を派遣したのですか?
A. 主な目的は、スペイン国王にメキシコとの直接貿易について働きかけることと、ローマ教皇に仙台領へのフランシスコ会修道士の派遣を求めることでした。
単なる海外視察ではなく、通商と宗教をめぐる外交交渉を行う使節でした。
Q2. 支倉常長はどこまで行ったのですか?
A. 現在の宮城県石巻市にある月浦を出発し、太平洋を渡ってメキシコへ向かいました。
その後メキシコを横断し、大西洋を越えてスペインへ渡り、さらにローマまで到達しました。帰国したのは1620年です。
Q3. 慶長遣欧使節の目的は達成されたのですか?
A. メキシコとの直接貿易や宣教師派遣という主要な目的は実現しませんでした。
使節が海外に滞在している間、日本国内でキリスト教への規制が強まり、スペイン側との交渉を難しくする要因の一つとなりました。
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